3人目の看病~3人目の看病~
確かに本当は大阪に帰りたかった。 けれど年老いた祖母を一人松山に残して大阪へ帰ることは出来なかった。 夫・子供達に先立たれ、祖母自身もどれほど辛く悲しい思いをしたであろう。 私は祖母に「ばあちゃんはどうしたい?」と聞いた。 「大阪に帰してやらないかんと思っとる」 「私やパパの事考えず、ばあちゃんはどうしたい?」 「・・・・そりゃ・・・お前と住みたい」 こんな祖母を残して大阪に帰ることが出来るわけがない。 分かる、とても分かるよ、ばあちゃんの辛い気持ち。 だから今、私は祖母と松山に住んでいる。 祖母は父に「悪いと思っとる。でも私一人では無理じゃ。し~ちゃん☆を貸してくれんやろか」と言った。 父も祖母の気持ち、状況はよく分かっていた。 「し~ちゃん☆がいいのなら僕は何も言えません」と答えた父。 父も私の事を想うと松山においておくのは辛かったそうだ。 この年で祖母を抱え、私の将来はどうなってしまうのかと・・・ 皆心の中で葛藤していた。
この頃はまだ祖母も元気で家事も出来ていた。 畑仕事もしていた。 気分転換に友達と北陸にいた。 そこに1本の電話が入った。 祖母が約3日間意識が無く、病院に運ばれた、と。 私は悲鳴をあげて固まった。 友達が急いで大阪へと車を走らせてくれた。 途中、北陸の空港から松山に飛んだ方が早いんではないかと調べてくれたが松山行きは無かった。 車中震える中、友達はずっと励ましてくれた。
病院に到着すると祖母は口を利くことも出来ない状態だった。 「一人にしてごめんね」と泣きながら祖母の手を握る私の頭を、もう片方の右手で撫でようとしてくれた。 先に来てくれていた親戚が驚いた。 脳溢血のせいで病院へ運ばれたときには右半身不随になっていたようだ。 けれど私の顔を見るなり右半身が動いた!!と。 やはり祖母には私が必要なんだと改めて実感した。
犬の散歩を頼んでおいたおじさんが新聞受けに新聞が溜まっているのでおかしいと気付いてくれたようだ。 カーテンも開いたまま、玄関も開いたまま、呼んでも返事をしない。 おじさんは隣りの家の夫婦を呼び家の中に入ってくれた。 ソファーで座ったままの祖母に返答は無く、失禁もしている上に体が冷たい。 救急車を呼び、その間は毛布で祖母を温めてくれていた。 本当にこの人達には感謝している。
飲めない缶コーヒーを3本も飲んだ。 怖かった。祖父や母のようになってしまうのかと・・・ 翌日、脳外科で有名な病院へ転院させた。 出血はさほどひどくなく手術の必要も無い。けれど次また出血を起こすと命の保障は無い。 この日から私はまた病院へ泊り込んだ。
けれど、体の回復は驚異的だったが、痴呆という症状が出てきてしまった。 私の名前も分からない。母の名前を呼ぶ。徘徊する。 現実悲しいことばかりが起こった。 しかし、入院当時より痴呆もかなりマシになり、リハビリを経て1ヶ月半後には退院となった。
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